楠木正成― 神戸市中央区多聞通 ―
湊川神社 -
1294年(永仁2年)河内の国の生まれで、1336年(建武3年)、湊川の合戦で自害。42歳の若さでこの世を去った。終始後醍醐天皇の討幕と倒幕計画に参加し、初戦を赤坂・千早城で鎌倉幕府と戦い、奇戦を用いて幕府軍を破り、戦功により守護の要職につくが、1336年九州から再東上してきた足利尊氏軍を湊川で迎え撃ち自害する。
このように、正成は建武の中興に大功があったにもかかわらず、酬いられるところは極めて薄く、しかも足利尊氏の大軍が京都に入るのを寡兵をもって戦ったのである。この功績を讃えて神戸の市民は「楠公さん」の呼び名で親しみを持っている。
正成は生まれた日が、毘沙門天(多聞天)の誕生日と同日だったので両親が力強い武将になるよう幼少の名を多聞丸と命名した。このような環境の中で育った正成は、幕府の権力に従属することなく、自分の意志で行動する実力をもつ武士に育っていったのであろう。
楠木正成像 昭和の戦前、戦中にかけては、日本史の中で楠木正成ぐらい評価の高い人物はいない。戦時中はとびきりの大忠臣(英雄)ではあったが、戦後は湊川神社は知っていても、その社に祀っている人物の名も知らない人も多く、あの戦時中の正成の忠臣を思う心はどこにいったのかと思うぐらいになってしまった。
戦時中、神戸市電では、「只今、多聞通りの別格官幣社湊川神社の御神前を通過します」と車掌の声、電車の速度をさげ乗客は一斉に頭を下げて戦勝祈願した。
しかし、正成の評価の変化はくるくる変わったようだ。「太平記」の書かれたころは英雄視されたが、足利時代になると逆賊のように言われた。その後、徳川光圀の「大日本史」でもちあがり、明治以後は、太平洋戦争終戦までは日本史上の大人物となったのである。
文:豊田 實





































