顕宗・仁賢神社― 神戸電鉄木津駅 ―
神戸電鉄木津駅のすぐ近くに顕宗・仁賢という二人の天皇の名を冠した神社がある。顕宗・仁賢とはどんな天皇だったのだろうか。
古事記によると、清寧(せいねい)天皇が崩御された時に子がなかったので急いで後継者を選定する必要が生じた。時あたかも播磨の国司が、志自牟(しじむ) の長者の家の新築祝いの宴会に招かれた時、長者の使用人に「おけ」「をけ」という兄弟がいて、兄が舞い弟が歌ったときに「われわれ兄弟は履中天皇の孫だ」 と名乗ったので、国司は大いに驚きすぐさま都へ急使を走らせた。都からお迎えが参上し兄弟を角刺(つのさし)の宮へ迎え入れた。
二人の皇子は互いに皇位を譲りあったが、弟の歌が皇位継承の発端になったことから弟の「をけ」が先に皇位についた。これが顕宗天皇で、38歳で崩御された時、子がなかったので兄の「おけ」が後を継ぎ仁賢天皇となった。

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ところで、履中天皇の孫がどうして播磨の田舎にひそんでいたのか、また「私は天皇の孫だ」と名乗ったのを周りの人が信じたのは何故だろうか。
日本書紀にはそのあたりが説明されている。兄弟の父・市辺押磐皇子(いちへのおしはみこ)は履中天皇の子であったが、叔父の稚武(わかたける)(のちの雄 略天皇)に皇位継承をめぐって暗殺され、幼い兄弟の命も危なくなったので播磨の縮見(しじみ)に逃れ、長者の家に牛飼いとして住み込んでいた。
「いつまでも牛飼いの身分でいるのはいやだ、播磨国司に本当の身分を告げよう」と弟が主張するのに、兄は「そんなことをしたら殺されてしまう、止めろ」と 止める。このような問答ののち冒頭の名乗りとなった。こういう経緯から兄が遠慮して弟を先に天皇に推挙した理由もわかる。
木津駅から歩いて3分のところにある欝蒼とした樹木に囲まれた古色蒼然としたお社である。
文:廣川 幾雄





































