滝山城趾と布引の歌碑― 新神戸 ―
新神戸駅のすぐ裏に昔滝山城という城があったことを知っていても、実際に行ったことのある人は少ないのではないだろうか。この滝山城は、いつ誰が造ったか 明らかではないが、赤松円心が1333年に挙兵した時、布引の城に籠もったという記録があることから、滝山城はその時存在していたと言える。室町時代末期 あの有名な松永彈正久秀がこの城の城主で、1556年の名月の夜主君の三好長慶を招いて連歌、猿楽の会を催したという。
松永久秀は足利将軍義輝を殺し、それが原因で三好と対立し織田信長の配下に入るが、のち信長に反逆しついに1577年大和信貴山城で敗死、波欄の一生を送ったことから極悪人のように言われているが、能や茶道を愛した風雅の人でもあった。
さて新神戸駅の裏手に入ってすぐ藤原定家卿の歌碑の脇の細道を左に上って行く。小さい道標なので見逃さないように。思ったよりけわしい道なので、登山靴と ステッキは必要だし水筒も持ったほうがよい。道はよく整備されていて危険個所はないが、なにしろけわしい。所々に小さな平地があるのは曲輸のあとで、その 数30以上もあり守るに固い城であったことがわかる。馬も輿も通れない狭い険しい道を松永久秀や三好長慶は歩いたのだろうか。連歌師や能役者もこの道を 上ったのだろうかと考える。どうやら城主の館はいまの徳光院のあたりにあったらしい。休み休み歩いて30分で本丸跡に到着。史蹟滝山城趾の石碑が立ってい るだけで城らしいおもかげはない。松永久秀のあと、この城も幾度かの攻防があり、やがて織田信長の手中に入り、花隈城とともに荒木村重の支配する所とな る。その後村重が信長に謀叛したことから、信長に攻められ、1579年とうとう落城してしまう。その時滝山城花隈城の石は一つ残らず運び去られ、兵庫城築 城の材料に用いられたという。

松永久秀の孫にあたる江戸時代の俳人、松永貞徳がのちにこの地を訪れ「夏草にあんまとらせて苔の石」という一句を詠んでいる。
帰りは夢風船の鉄塔の下を左に曲がり、「猿のかけ橋」を通って川沿いに下ることにしよう。雄滝のすぐ下に在原行平、業平の歌碑がある。布引滝は平安時代か ら、華厳滝、那智滝とともに三大神滝と呼ばれ、多くの貴族や歌人がこの地を訪れ和歌を詠んでいる。明治のはじめ花園杜という民間団体が布引滝に関する名歌 を撰び石碑36基を建てた。その後一部は散逸したが近年、神戸市役所により復興されつつある。
以前は万葉仮名で読めなかったが、現在は現代かなで示したタ イルの解説板が横に並べてあるので楽に読めるようになった。
今から1000年以上も前に、都の要職にある貴族たちがはるばる滝を見るために、ここまでやって来たのかと思うと感無量である。
文:廣川 幾雄
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