
はじめに
2012年1月から始まる大河ドラマでも取り上げられ、今盛り上がりを見せている「平清盛」。現在の国際港・神戸の礎を築き、福原遷都などでとても神戸にゆかりのある人物です。今回の神戸特集では、そんな神戸と関わりの深い清盛の生涯を追いながら、人間「清盛」の魅力に迫ります!
また、神戸には平清盛だけでなく、源平合戦にまつわる史跡が沢山残っています。気軽に訪れることができる場所、中々見つけにくい場所など関連史跡の一部を行きやすさ、見つけやすさ順に紹介します。
- 清盛の魅力は神戸から(豊田實 著)
- ・清盛が見た父の姿
- ・清盛、栄華の始まり
- ・経ヶ島の建設に命をかけた清盛
- ・福原京への構想とは ~清盛はなぜ福原に遷都して福原京を作ったのか~
- ・神戸っ子、清盛
- ・人間清盛とは
- 何処にあるの?清盛ゆかりの史跡
- ・兵庫区
- ・長田区
- ・須磨区
清盛の魅力は神戸から(豊田實 著)
平 清盛(たいらのきよもり)
元永元年(1118)~治承5年(1181)
◆ 清盛が見た父の姿
清盛は、1146年父親の平忠盛とともに瀬戸内の海賊を鎮め瀬戸の安全に尽くした。その功として正四位安芸守となり、更に保元の乱の勝利に功したので、播磨守に昇進した。
清盛の成長には、父親・忠盛の後姿を見て育ったことに関係がある。
清盛が父親に仕えて内海の賊徒の平安に従った時のこと、清盛は父の戦果を目の当たりにし、「何といってもおやじは恐い おやじのことばは一つ一つ後頭部にこびりつく」とはじめて父の認識をあらためたと思われる。
八坂神社、忠盛灯篭
父親・忠盛は、日宋貿易で繁昌していたが、初めて武家として昇殿を許された時に、公卿のあいだで忠盛に対してかなりの差別やいじめのようなものがあり、そのことも後の清盛の生涯に影響を及ぼした。
清盛は「俺は必ず公卿に列座する」この一念で超人的な働きをした。内海賊退治の功により18才で従四位に叙せられたのは18歳、肥後守を経て安芸守には19歳、播磨守には39才で就き、このあと備前の国司となる。
やがて、49才で権大納言兼東宮大夫となり、50才で太政大臣(従一位)に昇りつめ、ついに公家の列座になったのである。
ここで清盛は隠居し、これ以上権力・地位・財力を表に出さず、その立場で大きく活用し政権を進めていけばよいと人並はずれたことを考え出す。そして神戸で14年間、武家政治を実施したのである 。
◆ 清盛、栄華の始まり
| 1158年 | 太宰大弐となる |
|---|---|
| 1160年 | 正三位 公卿に列座 |
| 1167年 | 従一位太政大臣となるが、3カ月後出家して (太政入道と呼ばれた)隠居生活に入る |
ただの隠居でなく、京にいる一族(一族内公郷16人 殿上人30余人)らを通じて政界ににらみをきかせつつ、兵庫の津の港湾施設の整備(経ヶ島の建設)を着々と進める。また、宋船の瀬戸内海乗り入れや、更に承安元年(1171)には娘徳子を高倉天皇に嫁がせ天皇の外戚となる。
独裁政権を確立することを目指した清盛は、平治の乱後10年も経たないうちに早くも太政大臣に任ぜられ、まもなくこれを辞任して出家隠居した。これがただの隠居でなく自分の一族を高い位にし、政治に関係をもつようにさせ藤原氏にも勝るともおとらぬ繁昌をみせ、「平氏でないものは人ではなし」とまで自慢するようになった。
◇ 長男重盛の諌めに耳をかたむけなかった清盛
昭和8年文部省尋常小学国史の教科書に、清盛と息子・平重盛のやりとりが記されている。
清盛は平治の乱後、10年も経たないうちに、早くも従一位太政大臣に任せられ、この勢いにまかせてだんだんわがままになり、その姿を見た後白河法皇の近臣のものが平家をほろぼそうと相談していました。このことが清盛に知られ、清盛は大変怒りました。
重盛はおとなしく忠孝の深い人だったため、清盛が怒っているのを知ると、 「自分の怨みで、役人を殺すのはよくありません。殊に我が家は今が最も勢いの盛んな時ですから、なおさら尊い行いをして子孫を栄えるようにしていかねばなりません。どうか、子孫のために我慢していただきたい」と涙を流して父を諌めました。しかし清盛は頑として聞き入れませんでした。
しかし、清盛も後に息子の平宗盛などにも諌められ、後悔していたのではないだろうか。
◆ 経ヶ島の建設に命をかけた清盛
| 1168年 | 出家し、摂津国福原に退く(神戸平野周辺) |
|---|---|
| 1170年 | 福原山荘を立て千僧供養、宋人引見 |
| 1171年 | 娘・平徳子(後の建礼問院徳子)が高倉天皇に入内する |
| 1172年 | 福原荘で千僧供養 後白河天皇臨幸 |
| 1173年 | 大輪田の経ヶ島を築く(人柱信仰 陰陽道の占師により) |
兵庫にすばらしい便利な港にするために(宋船出入)清盛はいろいろと構想を練っていた。
来迎寺 築島の碑
先ずはじめに地勢的に考えると南西の風は和田岬が防いでくれる。しかし、南東の風と潮の流れは防げないために、清盛の考えたことは「今の築島付近に人工島(経ヶ島)をつくる」ことだった。
経ヶ島をつくるためには土砂をどうするか、土砂があればどこから運ぶかが問題となったが、JR兵庫駅の北側(今の塚本道)付近に小高い塩槌山があり、この山の土砂を利用することになった。
しかし、24年間実施してみたがなかなか完成しないため、この付近の鎮守の宮である七宮神社を訪ね、その理由を聞いた。その結果は「山の土砂を削って使用した場合、山の神にお許しをえたか?」と神のお告げがあり、それをしていないことを述べたところ、「神のお許しもなしに建設するとは!」と言われ、山の神にお許しを願った。
その一方では、陰陽道の占師より人柱を海中にお経を読みあげて沈めると建設がうまくいくことを告げられていたので、この占い通り、西国街道に元気な男の旅人30人を集めて人柱にしようとしていた。
その時、阿波藩主田井民輔の息子・松王丸が清盛に「私一人が人柱になります」と申し出た。松王丸は石柱にくくられ、石棺に納められて、兵庫の津に沈められた。これは真実かどうかであるが、来迎寺には松王丸の墓がある(立派な五輪塔が立っている)。
※別の説として、『平家物語』巻六には、人柱は罪深いことだと考えた清盛が、人柱の代わりとして一切経を書いた石を沈めたため「経の嶋」と名付けられたとある。
◆ 福原京への構想とは ~清盛はなぜ福原に遷都して福原京を作ったのか~
| 1178年 | 中宮徳子に言仁親王(後の安徳天皇)誕生(建礼門院徳子) |
|---|---|
| 1179年 | 平氏政治改革と平氏政権の成立 |
| 1180年 | 6月2日遷都 11月23日遷都 |
清盛が京都から都を移そうとした福原の地は原野の広がる土地だったと思われる。特に今の荒田八幡神社の辺り(神戸市兵庫区荒田町)は、石井川と天王谷川が合流する湊川でありよく洪水にみまわれていたので荒田という地名が出来たといわれている。都では遷都について、貴族公卿の間では昆陽野(今の伊丹)、印南野(今の神戸市西区)が挙げられた。
しかし、清盛は下のような理由で福原への遷都を強行した。
- ①外交面で重要な港湾施設が備わっていること。
- ②内陸交通が要であること。(西国街道が通っている)
- ③京のように、神社仏閣の信徒の勢力が及ばないこと。
特に③は、父親・忠盛が公卿に差別やいじめを受けるのを見ていて、自分が合わないこと(信徒と朝廷との関係)を強く感じたからである。
荒田と呼ばれているように洪水の多い土地だったが、清盛は海と町を見わたせる平野に好感を持ち、この付近の土地に雪の御所の別荘を建て、天皇をお迎えする行在所を建てようとしたが、何分遷都を急ぎそのような施備は不十分であった。これも遷都を早めた一因でもあった。
清盛は遷都とは別に福原京を小京都にしたい構想があり、神戸表斜面の六甲山系は福原京の土地にし、その表斜面の丹生山田の里を小京都に建設しようと、次のように考えた。
- ①丹生山田の里とその山々を小京都にする(比叡山麓)。
- ②妙法寺を鞍馬山に、多聞寺を菩提寺に、唐櫃を大原にして京より大原女を居住させる。
- ③丹生山には明要寺を開山する。
◇ 清盛と舞子ヶ浜
1168年出家して神戸の福原に隠居したその間垂水の舞子ヶ浜をたいそう愛していたようで、当時「山田の浦」と呼ばれていたこの浜辺で女児に舞をまわせ宴会を度々楽しんでたので「舞子ヶ浜」というようになったともいわれている。
◆ 神戸っ子、清盛
| 1181年 | 清盛没 (享年64歳) |
|---|
このように隠居の期間に神戸で暮らした清盛が神戸市民にどう響いたか。
貴族政治を打破し、保元の乱や源義朝との戦い(平治の乱)にも勝利し、日宋貿易を盛んにし、福原遷都などの型破りの手法で、政治・軍事・経済(権力・地位・財力)の三位を掌握し、武士(武家)が中心の時代へと変化させた。清盛は14年間、神戸に住んでおり、10年一昔と考えるとまさに清盛は「神戸っ子」である。そういう意味で清盛を評価すれば神戸に残した功績は大きい。大いに賞賛したい。
◇ 清盛の墓所はどこに
残念ながら今日、清盛の墓所ははっきりしない。当時の公卿たちの日誌にも、この偉大な人物の墓については記録されていないのである。清盛の生前のことについての批判や評価は別として、あれ程の活動した人の墓が造られなかったことは考えられない。いや、その墓は1ヶ所だけでなく、数ヶ所に作られても不思議でない。清盛は京都で死去したのであるが、三日を過ぎた七日に京都愛岩で火葬にされ、その骨を円実法眼が頸にかけて、摂津に下り経ヶ島(来迎寺)に納めたとされている。これは清盛が死去の前に自分の思い出の一番多い来迎寺にという遺言だったということである。
人間清盛とは
清盛は波欄の人生を生き抜き、栄華の絶頂を極めた人物であるがまた、死ぬ間際まで、平家一門の大黒柱として活躍をつづけた。その器量の大きさは、残された子どもたち(重盛・基盛・宋盛)がその他、また一族が何人いっしょになっても及ぶところではなかった。
- ①清盛の、地下(じげ)から太政大臣まではいあがり、一族を高位高官につかせ、最後までその権力を持ちつづけた政治力はどうだろう。
- ②後白河天皇や延暦寺興福寺の信徒を向こうにまわして、保元・平治の乱に勝利した政治上のかけひきのうまさは、当代一流である。
- ③日宋貿易に見せた国際感覚も単なる権力家にとどまらなかった。
清盛があと10年の余命があったら平家があれほどあっけなく崩壊しなかったのではないかと思われる。私たちは、ここで今一度清盛を考えてみてはどうだろうか。
監修:神戸市生涯学習市民講師
神戸歴史クラブ理事長
豊田 實
◆ 何処にあるの?清盛ゆかりの史跡
平清盛ゆかりの史跡は、街中にひっそりと佇むものや坂道を登った先にあるものなど様々です。ここでは神戸市内の清盛ゆかりの史跡を行きやすさ・見つけやすさ順に紹介します!
気軽に! 公共交通機関を利用して気軽に訪れることができます
歩きます 駅・バス停から距離があったり、坂道を登ったり…
何処? 街中にひっそりと佇んでいます。見つけることができますか?
※行きやすさ・見つけやすさは取材者の主観に基づくものです。ご了承ください。
より大きな地図で (神戸特集-:平清盛ゆかりの史跡) を表示
○ 兵庫区
「清盛塚、琵琶塚」
弘安9年(1286)の銘を持つ十三重の石塔で、昭和43年建立の清盛像と並び立っています。清盛の遺骨が納められていると伝わっていましたが、大正12年の旧神戸市電の道路拡張工事の際の調査で、墓ではなく供養塔であることが確認されました。
市営地下鉄海岸線「中央市場前」駅より徒歩約10分
「松王丸入海の碑」
暴風大波で難航していた経ヶ島築造の際に、人柱となったと伝えられている松王丸の供養塔です。
市営地下鉄海岸線「中央市場前」駅より徒歩約3分
「荒田八幡神社」
暴風大波で難航していた経ヶ島築造の際に、人柱となったと伝えられている松王丸の供養塔です。
市営地下鉄西神・山手線「大倉山」駅より徒歩約15分
「雪見御所旧跡」
石井川と天王谷川の合流点に位置する雪御所町は、清盛の別荘「雪見御所」跡と言われています。明治41年に湊山小学校の校庭より礎石や土器などが発掘され、この石碑が建てられました。
市営地下鉄西神・山手線「大倉山」駅より徒歩約30分、もしくは市バス「石井橋」バス停よりすぐ
「潮音山上迦寺址」
在の祇園神社の裏山にあったと伝えられる山寺で、源平の合戦で焼失したと言われています。ここで、清盛は兵庫津の築港を監督し、潮の干満も調査したと伝えられています。
市営地下鉄西神・山手線「大倉山」駅より徒歩約30分、もしくは市バス「平野」バス停より徒歩3分
「古代大輪田泊の石椋」
大輪田の泊は、清盛による日宋貿易の拠点となりました。この花こう岩の巨石は昭和27年新川運河浚渫工事の際に出土し、清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていましたが、平成15年に北西約250mで行われた調査の際、奈良時代後半から平安時代中頃の港湾施設と考えられる遺構と建物の一部が発見されたため、この巨石は古代の石椋の石材だったと推定されます。
市営地下鉄海岸線「中央市場前」駅より徒歩約4分
「清盛くん」入江橋
平清盛を地域のシンボルとしてPRするため、平成17年に入江橋の傍らに建てられました。
市営地下鉄海岸線「中央市場前」駅より徒歩約4分
○ 長田区
「源平勇士之碑」
源平一ノ谷の合戦で亡くなった平通盛や相討ちした源氏方の木村源吾重章、また平盛俊(たいらのもりとし)と戦った猪俣小平六もこの付近で戦死したため、彼らを供養する碑が源平仲良く祀(まつ)られています。
市営地下鉄西神・山手線「長田」駅より徒歩約3分
「平盛俊の墓」
北門の大将だった平盛俊は、明泉寺から南へ逃げる途中で、源氏の猪俣小平六則綱と一騎打ちとなり、盛俊が優勢となり則綱が降参したためあぜ道で休んでいるところへ、近づいてきた源氏の人見四郎に気を奪われていた盛俊を則綱が襲い、盛俊は首を討たれました。
市営地下鉄西神・山手線「板宿」駅より徒歩約5分
「平忠度の胴塚」
一ノ谷の合戦で西門の総大将をつとめた薩摩守平忠度は、海沿いに逃げ延びていく途中で源氏の岡部六弥太忠純に追いつかれ、双方組み付きもみ合っているところに、忠純に仕える郎党に腕を斬られました。この胴塚付近に、忠度の首をはねたあとの胴が埋められたと言われています。
市営地下鉄海岸線「駒ケ林」駅より徒歩約13分
「平忠度の腕塚」

上の胴塚と同じく、平忠度の腕が切り落とされたのがこの辺りだったと言われています。
市営地下鉄海岸線「駒ケ林」駅より徒歩約10分
○ 須磨区
「平敦盛塚」
平敦盛は清盛の弟経盛(つねもり)の末子で、一ノ谷の合戦で熊谷次郎直実によって討ち取られ、それを供養するためにこの五輪塔を建立したという伝承からこの五輪塔は敦盛塚と呼ばれるようになりました。
山陽電車「須磨浦公園」駅より徒歩約5分
「平重衡捕われの松跡」
平重衡は清盛の五男で、一ノ谷の合戦で敗走中に捕らえられた場所と言われています。
山陽電車「須磨寺」駅すぐ
「安徳天皇帝内裏跡伝説地」
平清盛の娘、建礼門院徳子を母として生まれた安徳天皇は、壇ノ浦の戦いで祖母二位尼に抱かれて入水、わずか8年の生涯を終えた。平家が敗走し西へ下る途中、この一の谷に都が置かれたという伝承があり、その跡地に安徳天皇の冥福を祈って祈って安徳宮が祀られています。
山陽電車「須磨浦公園」駅より徒歩約20分



























